東本郷、図書館裏。

17時起。身支度して近所のスーパーへ買物にゆく。自転車や徒歩では億劫なので車を出す。近所といっても、なかなかの距離がある。できることなら、通勤以外では自転車に乗りたくないのだ。拙宅の近所には何もない。「何もない」という言い方はおかしいかもしれないが、駅は遠いし、バスの停留所までゆくのも、けっこう歩く。最寄のコンビニはそのバス停の前だし、煙草や飲料の自販機すらないのである。デスコもねえ。バーもねえ。そんなふうに、吉幾三先生みたく明るく嘆いている毎日なのだけれども、考えてみると、いや、ある。あるじゃないか。徒歩1分のところに図書館、そこから3分も歩けばラブホテルだ。「ラブホテルまで徒歩約3分の好立地」これはいいことなのだろうか。私はつくづく、なんというところに住んでおるのか。と、苦笑を禁じ得ないのである。だいぶ世話にはなったものだが。


夜、かき鍋を拵えて食う。後、残り汁に米飯とネギ、鶏卵をいれて「おじや」。まるでハリウッド・スキャンダル。鱈腹になるまで食ってから台所の清掃。汚すだけ汚していった家人を少恨。後、自室に入りウイスキー清酒とD薬を飲みつつ書きもの、および安産祈願。写真の清酒は、料理に使うのと飲むための兼用で、料理用の酒がなくなってしまい買ったものである。金がないと(それに家人がいないと)そんなアイデアが浮かぶのだから可笑しい。




おおよそスーパーなどで売っている“料理酒”というのは、同じ日本酒であっても「清酒」とは異なる「合成清酒」であることが多く(例えば麦酒でいうところの発泡酒第三のビール)、価格は安いが、そいつを飲むとなると不味いのはもちろん、翌朝などはもう、酷いものなのである。けれども私などの依存者は、金がなくて何も飲むもんが買えぬとき、果ては“料理酒”にゆきつくわけなのだから、それならてんから「合成清酒」など買わずに、それに近い「安価の清酒」を買って兼用としようじゃないか、という、かなり「飲むことだけを意識」した都合のいい名案も浮かぶというものである。