仁義なきソーセージ

13時起。携帯電話の着信音に、謂わば“たたき起こされた”恰好。広島の病院に入院中の家人からである。当方、近年稀にみる宿酔レベルの高さで、それは当方の酒臭さが、通話口から先方に伝わってしまうのではないかとの思いを抱かしむる程のものであった。無論、実際にそんなことは在り得ぬことなのだけれども、家人には私の状態がしっかりと伝わっているようであった。というのは家人曰く、「寝てた?つーか飲み過ぎだろ」。


このまま順調にゆけば11月末の帝王切開手術の予定(昨今、双子の分娩はそれが一般的なのである)。現在、子宮頚管が1.6センチにまで開いてはいるものの、その状態を保ったまま安定しているとのこと。とはいえ、予断を許さぬ状態であることに変わりはないのだという。家人の担当医は私と同年代の女医らしく、その気楽さから家人は医師に、「じゃあ、キリのいいところで、12月1日に(赤ん坊を)出してもらえないかなあ」などと、まるで友達から少々の金を借りるがごとくの申し出をしたそうだが、さすがの医師もこれには、「そんなことを言う人は初めてですよ」と、苦笑まじりに答えたという。つまり、状況が状況だけに家人のような、良くいえば楽観的でのんきな入院患者には、お目にかかったことがないのであろう。


電話を終えて買物。の筈だったのだが、あえなく再眠。つぎに目が覚めたのは20時であった。なんということだ。買物めんどくさいので、スパゲッティーニを茹で、食器棚の奥にあった市販の瓶詰めソースをからめて食う。まあ別段、食わなきゃ食わないでもいいのだが、どうも近頃の私は「生活」の立脚点を「食」に置いているようである。それは私が、堕ちるところまで堕ち得ぬ小心者であるという証左に他ならないが、家人を安心させ、喜ばせようとしている“マザコン的やさしさ”もまた、私には多分にあるということがいえるだろう。――深更、ウヰスキー飲みつつ上から読んでも山本山。下から読んでも山本山