朝の果てへの旅

ことの起こりはこうだ。――


という書き出しで始まる小説がある。セリーヌの『夜の果てへの旅』(生田耕作訳)である。それを初めて読んだとき私はいたく感心したものだ。その頃すでにつまらない文章を書いていた私は、そのセリーヌの書き出しに、なんとシンプルで、誰しもが思いつきそうでいて実は思いもよらぬというか、ちょっとでも文章を書く人なら敢えて避けたくもなるような極めて直線的かつ生一本なものであるよなあ。やるなあ。と思ったからである。畏れ入ったからである。つまりそれが私の脳と下半身を、とてもゾクゾクさせる「導入の妙」といったものを感じさせたのであった。その辺については、もっとたくさん述べたいことはあるのだが・・・・・・。というのも、私は小説フェチならぬ小説の「書き出しフェチ」だからである。一軒目一杯目の生ビールである。お通しである。接吻である。


ところで、本邦においては吉幾三の、じゃなかった、川端康成の『雪国』、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の冒頭部分は、現代においても多方面でよくパロディのネタ、或いは学校の試験問題にされるほどのあまりにも有名な一文であるが、長年「書き出しフェチ」を自認する私にとっては初読の折、先の部分にさのみの性的興奮を覚えることはなかった。しつこいようだが「書き出しフェチ」の私には、そこに性的興奮を求めがちなのである。だからといって、その『雪国』の書き出しがつまらなかったとか、何も感じなかったとか、そういうことではない。そのあとの一文、「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」――そこで私は初めて、真白な精液を大量に排出する快感ともいうべきものに、身を震わせたのである。



追記。写真はセリーヌの一文(生田耕作訳)である。