Echoes (part 2)


そんな折、いつものように近所の酒屋兼煙草屋で缶ビールとコーラ、それに私が常用している煙草「ホープ」を求めると、会話の中で店の女主人がこんなことを云った。「最近は若い人も“エコー”や“わかば”を買っていかれるんですよ――」。聞けば、それらの煙草は“旧三級品”という部類に属しているため税率が抑えられ、また、もともとの価格が安いだけに、エコーは値上がりしたのちも1箱240円と云う安さなのだとか(ホープは440円である)。私は「これだっ」と思い、早速エコーをひとつ求め、中学生の時分に初めて煙草を買ったときのような、わくわくする気持ちで家に帰った。


私はバカのくせに、食い物や酒、女、煙草などの味には結構うるさい方で、「煙草ならなんでもいい」なぞ云うような考えは持てぬ。エコーなどのいわゆる“安煙草”と称されているものは、所詮それなりの味、香りで、即ち「まずい」と云う意味の話を、昔どこかで聞いたことがある。ゆえに私は過度の期待はせぬこととし、火をつけた。一服、二服して、ん?――。確かにうまいとは云い難いけれども、喫んでいて何の抵抗もない。良い感じなのだ。つまり、ホープとさしたる違いがないのである。私は再び「これだっ」と、今度は声に出して云った。そして瞬時に頭の中で、一と月の煙草代を計算した。ホープのおよそ半分である。私は掘出し物でも見つけたような、その場で小躍りしたくなるほどの気分であった。――のちにエコーについて調べてみたら、タール・ニコチンの数値がホープとほぼ同等ということが判った。そして煙草の長さが、他のものに比して短いという点もまた共通している(それはまあ、一目で判ることなのだが)――。




それから三月が経つ。現在ではすっかり馴れ親しんで常用しているが、自販機では売られていぬことも少なからずあるのが唯一の難点と云えよう。そんなときは、近くにコンビニや煙草屋などあればよいが、なければ仕方なくホープを買って喫んでいる。それが何やら、しばらくぶりに昔の女と再会したような、なんとも云えぬ気持ちにさせるのだから私はまたぞろ、お決まりの苦笑を洩らさずにはおれぬのである。





Echoes (part 1)


正午過ぎに起きて先ず一服。10月の増税を機に、お煙草をおやめになった御仁も少なからずいたようで、私も各所より禁煙、と云うか“卒煙”を促される場面もあったが、「子供も生れることだし、禁煙してみたらどうかね。煙草銭だってバカにならないぞ。やめて、それで浮いたお金で赤ちゃんのオムツやミルクでも買ってやったほうがよっぽど、それに――」などと、かなり具体的な金の使い途まで指導する、おせっかいも甚だしい人たちの話を、煙草をやめる気なぞ毛頭ない私は、お決まりの苦笑うかべつつ聞き流してゐたものである。


ところが一と月もすると、煙草の値上がりは思いの外わが懐を寒からしめる雲行きとなりて、恥ずかしい話“節煙”なぞ試みてみたりもした。つまり日に喫む煙草の本数を減らして、値上がりした分を相殺しようという殊勝な、いや、さもしい考えからのことである。が、最早ヘビースモーカーに出来上がってしまっている私にとってそれは“難行苦行”以外の何物でもなく、三日と保たなかった。そして、節煙や禁煙なぞ私には土台無理な話であると云うことを、改めて思い知らされるのであった。







せきらら


17時帰宅、へとへと。仮眠90分ののち入浴。熱い湯に浸かりながら、晩飯のおかずはどうしようとか、面倒だから飲みにでもゆくか、などと考える。されど一向に考えまとまらず、風呂から上がるとのぼせ気味。めまいと呼吸困難でその場にへたりこんでしまう。昨晩から何も食ってないというのも、その要因のひとつであろう。(※画像はイメージです)






飲みにゆく体力なき故、Sミットにゆく。空腹時の買物は危険である。それこそ「あれも食いたい、これも食いたい」で、まあ、食慾があるのは結構なことだが、カートに乗せたカゴは、店内を半周もせぬうちいっぱいになってしまうという有様、更にカート下段、そこにはもうひとつカゴを乗せられる仕様になっているのだが、無論、会計に向かう頃にはいっぱいである。


しかし考えてみると、そうやって一種盲目的に、或いは餓鬼と化した如く大量の食料品を買い込むのは、なにも空腹時に限ったことではないような気がする。つまり、それが私の悪しき癖であることはいつかも書いたが、それはともかく、どうやら此頃は特に、日々買物に出かけてゆき「浪費する」ことによって、独り身の寂しさを紛らし、また埋めているようでもある。